放送第19回『ホークとレスター』(3)ホークとトレーン

今回は番組では時間の関係で触なかった話題です。

高良さんは、ホーキンスのテナーを「いくら丼ですね。音のひとつぶひとつぶが大きくてツヤツヤしている」と形容していた通り、ホーキンスのテナーは一音一音が強く、濃いです。

濃く、タフなテナーです。
このタフなイメージにさらに拍車をかけている大きなポイントは音をふるわせるビブラートの巧みさでしょう。

ビブラートが太い音色にさらに奥行きをもたらし、特にバラードでは絶大なる威力を発揮しているのは、番組中で流した彼の代表曲《ボディ・アンド・ソウル》や《マイ・マン》でもお分かりのとおり。



このバラード表現の深さは、たとえばジョン・コルトレーンのバラード表現と比較するとよりいっそう理解できるのではないかと思います。

ホーキンスもコルトレーンもセロニアス・モンクと共演し、かつモ同じ曲を演奏しています。
モンク作曲の美しいバラード《ルビー・マイ・ディア》です。
▼コルトレーン(左)とホーキンス(右)の《ルビー・マイ・ディア》
 

コルトレーンには『バラード』という人気アルバムがあり、バラードの名手とされてはいますが、ホーキンスのバラードと比較すると、個人的には“深み”、“説得力”という点ではホーキンスのほうが1枚上手と感じます。

もっともホーキンスの目指したバラード表現と、コルトレーンの目指したバラードのスタイルは違うので、単純に比較するわけにもいかないのかもしれません。

しかし、2人の《ルビー・マイ・ディア》を聴き比べると、ホーキンスの「有無を言わせなさ」に比べると、コルトレーンの場合は「メロディをいつくしむように慎重に一音を重ねてゆく誠実さと、漂う不器用さが却って彼の人間性を感じ、そこにシンパシーを感じ、感動してしまう」というカギ括弧の中のワードがどうしても増えてしまうところがあり、数音で黙らせてしまう説得力と、音の積み重ねによってそこから漂う説得力とはずいぶん違うものがあるように感じます。

もちろん、私はコルトレーンのバラード表現は嫌いではありませんが、少なくとも《ルビー・マイ・ディア》に関してはホーキンスのバージョンのほうが好きですね。

セロニアス・モンクが作り出すユニークな曲には、さまざまなバリエーションや作曲時においてのコンセプトの違いがありますが、《ルビー・マイ・ディア》の場合は、コード進行のロジックでガチガチに固められた「構築系」の曲です。
スタンダードナンバーや、曲の骨組みがガッチリと構築されている曲では、ホーキンスのほうが強みを発揮するようです。
舞台照明と証明がガッチリと整った舞台の上で立派に役割を演じる大俳優を連想します。

一方、コルトレーンのスタイルや音色には、ガチガチにツー・ファイヴ武装されたコード進行(確固とした曲の流れが構築されたコード進行)のものよりも、《ネイマ》のような浮遊感のあるハーモニーの響きのものや、無伴奏のカデンツァで奔放に吹きまくる《アイ・ウォント・トゥ・トーク・アバウト・ユー》、モーダルなピアノの香り漂う《エヴリタイム・ウィ・セイ・グッバイ》などが個人的には好きですし、このようなタイプの曲構造にこそコルトレーンのようなタイプは強みを発揮するのだと思います。

とくに《エヴリタイム・ウィ・セイ・グッバイ》は、番組のエンディング曲に使うほど大好きな演奏なのですが、ホーキンスがもたらすバラードの感動とは別種の感動を私は感じています。
短い時間の中に凝縮された「大感動」と、切々たる哀感が時間の堆積とともにじわじわと積み重なってゆく感動の違いというのかな?

また、ホーキンスの場合はサックス一本での感動ですが、コルトレーンのこの演奏の場合は、ソプラノサックスのみならず、マッコイ・タイナーのピアノの比重も感動の中には大きな位置を占めているという違いもありますね。

どちらも嫌いではありませんし、その日の気分や体調次第なんですが(笑)、毎週番組のエンディングで聴いているコルトレーンのバラードに対して、久々に聴いたホーキンスのバラードの太さは、かなり新鮮な体験でしたね。

▼番組のエンディングテーマが2曲目に


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